猫箱をつつく

07th作品の感想・考察を垂れ流しです。

安田紗代に関する思考のまとめ②【暫定】

次は古戸ヱリカについて。

 

古戸ヱリカが「地獄は長さではなく深さだ」と言ったことは、めちゃくちゃ重要なこと。

ラムダデルタやベルンカステルの言う通り、「地獄=長さ」であるとすれば、うみねこの中で最も苦しんだのは縁寿(地獄12年)ということになり、安田紗代の地獄6年が霞んでしまう。

地獄が長さでないこと、を示すことで、縁寿も安田紗代も、どっちも同じくらい苦しんだんだよ、というのを伝えている。

そして、「地獄=長さ」と捉えることもまた、間違った解釈ではない、というのを伝えるために、あえて両意見を出しているんだと思う。

 

うみねこのなく頃に」で一番大事なことは「真実は人の数だけ存在する」ということ。

逆に言うと、それを証明するために、うみねこは複数の解釈を許さなければならない。

「地獄=長さ」「地獄=深さ」あなたはどちら派ですか?と聞いている。

そしてもし、「地獄=深さ」であると捉え、自身に地獄と言える期間がわずかでも存在するなら、誰にだって「安田紗代を理解する権利」を与えられていることが保証されている。

「地獄=長さ」と捉えるなら、みっちり6年、地獄を味わわないと安田紗代は捉えられない、ということになる。

 

こう言ってはアレだけど、古戸ヱリカの彼氏に浮気されたこと、なんて、安田紗代の身体のことや出生(血縁関係)のこと、縁寿の家族が突然帰ってこなくなったこと、いじめられたこと、これらに比べれば大したことないな、って思う。

でも、古戸ヱリカの地獄って彼女らの地獄とは違う。

「彼氏のことを信じたくて、浮気していない証拠を探した。見つからなかった。愛している証拠なら見つかった。」

古戸ヱリカは「愛している証拠」を「浮気していない証拠」とすれば良かった。

でも、それができなかった。だって、彼氏のことが信じられなかったから。

古戸ヱリカの地獄は、「信じたいけど信じられない」というロジックエラーが原因であり、これは「ひぐらしのなく頃に」における雛見沢症候群に近いと思っている。

 

あと、個人的に大好きな描写は「古戸ヱリカがベルンカステルを見下すシーン」。

これまためちゃくちゃ重要で、ベルンカステルを盲信気味な古戸ヱリカがベルンカステルを見下すということは、「好きなものや人に対して、自分が違うなと思ったら違うと思って良い、無理に好きなものや人に合わせる必要はない」と主張している。

 

次は縁寿について

縁寿、本当につらかったと思う。

「突然家族が帰って来なくなった」「伯母は真相を話してくれない」「ルチーアでいじめに遭う」とか、自殺してもおかしくないレベルの負荷だった。

自殺しなかったのは、真実を知りたいという強い思いがあったからかもしれない。

そして何より、竜騎士07が殺してくれなかった。

(あれ、これ安田紗代が南條に「いっそ死なせてほしかった」って言ったのと似てる?)

安田紗代は苦しかったから自死した。

これで縁寿までもが自死してしまうと、うみねこという作品は「苦しかったら死んでもいいんだよ」というのを許容する作品になってしまう。

そうではなくて、「地獄から生還したやつは幸せになれる」というのも描きたかったから、縁寿は生かされたんだと思う。

あなたは「苦しくて自死した安田紗代」と「苦しいが自死しなかった縁寿」、どちら派ですか?という問いかけ。

こうしてみると、縁寿と安田紗代は対比的に描かれている。

うみねこという作品の中で、縁寿にあって安田紗代になかったものは、「真実の魔女エンド」だと思う。

(理御はあくまでも夏妃に受け入れられて生まれる存在なので、真実の魔女とは違う。)

なので、私は「安田紗代の真実の魔女エンド=約束の1~2年後くらいに戦人との約束を信じるのを止め、島外で生きるようになった」と勝手に妄想している。

その果てに行き着くのが、ヤス=古戸ヱリカ説。

彼氏にフラれたことをきっかけに、また人格の分離が起こり、古戸ヱリカ(人格)はベルンカステルを後見人として、因縁の地・六軒島に再び流れ着いたのであった...!(妄想です)

 

少し、安田紗代の解釈とズレたところもあったけど、「うみねこのなく頃に」は人生の手引き書だと思っている。