猫箱をつつく

07th作品の感想・考察を垂れ流しです。

うみねこEP6について、思考を改めた(メモ)

うみねこのなく頃に EP6、今までなんとなくしか捉えられていなかったので、思考更新。

 

これまでの見解:ヱリカの戦人との挙式を阻止後、雛ベアトと姉ベアトが融合してEP5までのベアトリーチェに戻る(ただ、ピース足りなくないか、とは思っていた)。

更新した見解:雛ベアトと姉ベアトが融合して、真のベアトリーチェが蘇る。

 

個人的なヤス人格の定義:出産できない体、金蔵の近親相姦により生まれた子ども等、"安田紗代"におけるあらゆる負の環境・背景・感情を担った人格

 

EP1~5のベアトリーチェの正体:ベアトリーチェ + ヤス

 

ベアトリーチェ:純粋な戦人への好意 + 六軒島の主でいたずらっ子

ヤス:戦人を救世主とした信仰(戦人だけが自分を救える存在だと信じていた)を持つ

過去の記憶は都合よく修飾されやすい + 戦人とコンタクトをとらなかった(現状の戦人がわからない)ので、「戦人なら謎が解ける」「自分を受け入れてくれる」と強く信じるようになった。

(譲治はたぶん謎解きのセンスがないと、一緒に過ごすうちに思っていた?これも"戦人信仰"の原因か。)

→ 戦人信仰を「戦人への好意」と勘違いしたヤス、類似した気持ちを持つ"ベアトリーチェ人格"に憑依 = EP1~5のベアトリーチェ(84年〜86年のベアトリーチェ

→ 紗音や嘉音に対して、"家具"(安田紗代の人格のうちの一つでしかないため、恋を成就できない存在)と揶揄していた、自分もそうであるはずなのに。

= 主人格(ヤス)が融合しているので、他人格に対して強気に出ている

※ 戦人信仰≒オヤシロ様信仰

 

ヤスは戦人を「信仰」しているが、「好いて」はいないので、戦人の気持ちを考えていない、自分勝手な行動をする。

・1986年10月4~5日にかけての戦人自身、実父・留弗夫の殺害

(戦人が帰ってきた時点で、戦人が留弗夫を許したことは自明。留弗夫の死により悲しむ可能性は考えられる。)

・右代宮家の人間が殺されるのを戦人のせいにする

子どもを産めない身体であること:夏妃と金蔵が悪い

身内ばかりに恋をしている:金蔵が悪い

→ 金蔵が気持ち悪いから、金蔵の血が流れるやつらを根絶やしにしたい。

= 戦人が約束を守らなかったことと結びつけるのは強引(個人的感覚)

個人的感想:自分のせいで他人が死ぬとか胸糞悪すぎる。好きな人に対しては絶対やりたくない。

個人的感想:そんなに好きなら、手紙、出しちゃえばぁ?

(神格化した存在に対して手紙を出すなんて、そんなおこがましいこと、できませんよね?)

 

・ヤスは"戦人信仰"を"恋"と勘違いしていた = ベアトリーチェに憑依

・ヤスの中の"イマジナリー戦人"と"リアル戦人"の格差が大きかった(謎は解けない、約束も覚えてない、最悪....)

→ 過去の戦人(イマジナリー戦人、救世主戦人)を返せ = リアル戦人への恨み = 全裸首輪戦人の誕生、そなたは無能だ、発言

→ 過去戦人(救世主戦人)がいつまでも現れないことに絶望(現実を受け入れた?)したヤス、自害 in EP4, 5

→ 純粋に戦人を慕う、真ベアトリーチェの復活

 

戦人信仰はひぐらしオヤシロ様信仰に近い。

雛見沢村民「部外者に対してオヤシロ様は怒ってる!」

オヤシロ様「いや、そんなことないけど?祟りとか望んでないし。」

雛見沢村民のオヤシロ様信仰は、ただの村民の願望。

オヤシロ様の心なんて考えないというか、勝手に解釈する。

 

ヤスの前に現れたのは、自分が想像していたのとは、全く違う戦人だったんでしょう。

EP8で縁寿が戦人(十八)と会った時の感情に近いのかもしれない。

6年という月日な長くて、特に幼少期〜青年期にかけてなんて、色んなことを経験して、吸収して、簡単に変わってしまう。

「リアル戦人が死ねば、戦人は誰のものにもならないし、イマジナリー戦人が永遠に保存される、神になってくれる」とも考えられる。

安田紗代に関する思考のまとめ②【暫定】

次は古戸ヱリカについて。

 

古戸ヱリカが「地獄は長さではなく深さだ」と言ったことは、めちゃくちゃ重要なこと。

ラムダデルタやベルンカステルの言う通り、「地獄=長さ」であるとすれば、うみねこの中で最も苦しんだのは縁寿(地獄12年)ということになり、安田紗代の地獄6年が霞んでしまう。

地獄が長さでないこと、を示すことで、縁寿も安田紗代も、どっちも同じくらい苦しんだんだよ、というのを伝えている。

そして、「地獄=長さ」と捉えることもまた、間違った解釈ではない、というのを伝えるために、あえて両意見を出しているんだと思う。

 

うみねこのなく頃に」で一番大事なことは「真実は人の数だけ存在する」ということ。

逆に言うと、それを証明するために、うみねこは複数の解釈を許さなければならない。

「地獄=長さ」「地獄=深さ」あなたはどちら派ですか?と聞いている。

そしてもし、「地獄=深さ」であると捉え、自身に地獄と言える期間がわずかでも存在するなら、誰にだって「安田紗代を理解する権利」を与えられていることが保証されている。

「地獄=長さ」と捉えるなら、みっちり6年、地獄を味わわないと安田紗代は捉えられない、ということになる。

 

こう言ってはアレだけど、古戸ヱリカの彼氏に浮気されたこと、なんて、安田紗代の身体のことや出生(血縁関係)のこと、縁寿の家族が突然帰ってこなくなったこと、いじめられたこと、これらに比べれば大したことないな、って思う。

でも、古戸ヱリカの地獄って彼女らの地獄とは違う。

「彼氏のことを信じたくて、浮気していない証拠を探した。見つからなかった。愛している証拠なら見つかった。」

古戸ヱリカは「愛している証拠」を「浮気していない証拠」とすれば良かった。

でも、それができなかった。だって、彼氏のことが信じられなかったから。

古戸ヱリカの地獄は、「信じたいけど信じられない」というロジックエラーが原因であり、これは「ひぐらしのなく頃に」における雛見沢症候群に近いと思っている。

 

あと、個人的に大好きな描写は「古戸ヱリカがベルンカステルを見下すシーン」。

これまためちゃくちゃ重要で、ベルンカステルを盲信気味な古戸ヱリカがベルンカステルを見下すということは、「好きなものや人に対して、自分が違うなと思ったら違うと思って良い、無理に好きなものや人に合わせる必要はない」と主張している。

 

次は縁寿について

縁寿、本当につらかったと思う。

「突然家族が帰って来なくなった」「伯母は真相を話してくれない」「ルチーアでいじめに遭う」とか、自殺してもおかしくないレベルの負荷だった。

自殺しなかったのは、真実を知りたいという強い思いがあったからかもしれない。

そして何より、竜騎士07が殺してくれなかった。

(あれ、これ安田紗代が南條に「いっそ死なせてほしかった」って言ったのと似てる?)

安田紗代は苦しかったから自死した。

これで縁寿までもが自死してしまうと、うみねこという作品は「苦しかったら死んでもいいんだよ」というのを許容する作品になってしまう。

そうではなくて、「地獄から生還したやつは幸せになれる」というのも描きたかったから、縁寿は生かされたんだと思う。

あなたは「苦しくて自死した安田紗代」と「苦しいが自死しなかった縁寿」、どちら派ですか?という問いかけ。

こうしてみると、縁寿と安田紗代は対比的に描かれている。

うみねこという作品の中で、縁寿にあって安田紗代になかったものは、「真実の魔女エンド」だと思う。

(理御はあくまでも夏妃に受け入れられて生まれる存在なので、真実の魔女とは違う。)

なので、私は「安田紗代の真実の魔女エンド=約束の1~2年後くらいに戦人との約束を信じるのを止め、島外で生きるようになった」と勝手に妄想している。

その果てに行き着くのが、ヤス=古戸ヱリカ説。

彼氏にフラれたことをきっかけに、また人格の分離が起こり、古戸ヱリカ(人格)はベルンカステルを後見人として、因縁の地・六軒島に再び流れ着いたのであった...!(妄想です)

 

少し、安田紗代の解釈とズレたところもあったけど、「うみねこのなく頃に」は人生の手引き書だと思っている。

安田紗代に関する思考のまとめ①【暫定】

2022年6月6日時点で、個人的に思っている「うみねこのなく頃に」という作品の構造、登場キャラクターの意義、安田紗代の感情、等についてまとめようと思う。

 

うみねこのなく頃に」はめちゃくちゃ長い&ミステリーで、よく考えて創られたものであるからして、無駄な描写は一切存在しない、という認識。

つまり、全てのキャラクターの言動、情景描写等には必ず意味がある。

そして、これは考察というよりは、感想。

人によって見え方が違うはずなので、下記のことが正義だと言い張るつもりはない。

 

EP1~EP7 において、安田紗代はどこにも出てこない。

(出てくるのはあくまで、紗音、嘉音、ベアトリーチェ、理御、という独立した人格)

EP8になってようやく、虚無の海を漂流する縁寿にカケラが流れ込み、縁寿が安田紗代を認識することで安田紗代の存在が保証される。

魔女は誰かに認められなければ存在することができない、とこれまでのエピソードで散々言ってきたので、うみねこでは認められる=存在できる、という考え。

そして、紗音、嘉音、ベアトリーチェ、理御を重ねたところで、EP8で描かれたような「安田紗代」は出来上がらない。(負の感情がどうしても足りないと思う。)

もう少し視野を広げて「うみねこのなく頃に」という猫箱を俯瞰し、「猫箱=安田紗代」としてみた。

 

猫箱の中身

ゲーム盤上:譲治と恋をする紗音、朱志香と結ばれようとする嘉音、その他、安田紗代が抱いていた右代宮家の人たちのイメージが反映された駒たち。

ゲーム盤外:戦人に認められたい(気づいてほしい)ベアトリーチェ、ラムダデルタやベルンカステルといった魔女、ウィル、理御

紗音、嘉音、ベアトリーチェは安田紗代の中身なので説明不要。

ウィルは「心を蔑ろにするんじゃねぇ」という発言が戦人の「ミステリーではホワイダニットが大事なんだ」と被ること、ウィル理御の関係が性別の関係ないパートナーのような関係であること、理御がウィルの尻を抓ること(戦人の乳揉み逆バージョン)から、ウィル理御の関係は「安田紗代にとっての理想の戦人との関係」と推測。

ラムダデルタは自分が魔女になるために必要としていた存在。

加えて、もし自分に何かあっても、ゲームを続行させるために必要とされる存在。

* 返答(赤字、またはそれに準ずるもの)が得られないまま青字を撃ち続けるのは、心理的に無理。どこかで心が折れる。戦人の心も折れてしまえば、プレイヤーがいなくなるので、ゲームは成り立たなくなる。

ベルンカステルや古戸ヱリカ、ドラノールは戦人の心が折れないようにサポートする(うみねこというゲームはミステリーであり、必ず解けるよ、と戦人に伝える)存在。

加えて、わざと嘲笑することで戦人を焚きつけ(戦人の性格をよく知っている?)、ゲームから降りないようにさせる存在。

 

これらのキャラクターは安田紗代の中にあった存在と、願望を反映させた存在、とすれば、猫箱の外側が安田紗代、ということになる。

特に、ベルンカステルや古戸ヱリカは安田紗代の負の感情から生まれた存在だと思う。

 

安田紗代には秘密があった。自分の身体のこと、出生のこと。

それらを隠しながら譲治との関係を保っていたのは、本当に苦しいことだと思う。

いっそ、全部吐き出せたら楽なのに、と感じていたと思う。

でも、自分では吐き出せない。自信がない。

だからこそ、ラムダデルタ・ベルンカステル・古戸ヱリカという違う存在に、吐き出してもらった。

EP5では夏妃と金蔵への恨みを。夏妃の罪を。(ラムダデルタがゲームマスター代行)

EP7では金蔵の罪を。(ベルンカステルベアトリーチェのハラワタを引き摺り出した)

つまり、あんなに悪役に見えるラムダデルタやベルンカステル、古戸ヱリカは、安田紗代自身が必要としている存在であって、それぞれがちゃんと役目を果たしてくれている。

EP6の結婚式で、最後に古戸ヱリカが「悪役は最期の最後までこうでなくっちゃ」と言っていたが、これはEP8のベルンカステルを捉えるために必要な描写だった。

EP8では、ベルンカステルも縁寿に対して悪役を演じていたんだと思う。

そう、古戸ヱリカもベルンカステルも悪"役"であって、本当は安田紗代の味方だった。

 

安田紗代の心情一つ一つにキャラクターを当てはめて動かしたのが、「うみねこのなく頃に」という作品。

そして、安田紗代の心情はきっと、十八と幾子が「ああでもない、こうでもない」と、向かい合って議論しながら、一生懸命トレースしたんじゃないかと思ってる。

「ひぐらしのなく頃に 卒」神楽し編 其の四 感想

※ 「ひぐらしのなく頃に 卒」、「キコニアのなく頃に」、「新世紀エヴァンゲリオン」のネタバレを含みます。

 

とうとう終わった...

新「ひぐらしのなく頃に

「キコニアのなく頃に」の匂わせがところどころにありました。

以下、「ひぐらしのなく頃に 卒 最終話」の感想です。

 

・エウアさん

めちゃくちゃいい人(人じゃないけど)だと思いました。

最後、「敵」感を出して、討たれて、物語が決着する...

まるでお手本のような終わり方ができたのは、エウアさんのおかげだと思います。

その結果、エウアさんと沙都子が紡いできたカケラは砕け散っていき、

梨花と沙都子は「作り変えられた世界」で別々に生きていくことになりました。

このオチ、どこかで見たような...

 

...そう、エヴァ。シンエヴァ、または漫画版エヴァ

「エウア」さん、名前だけあって、まるでエヴァンゲリオン初号機ですね。

エウアさんが世界を作り変えるために必要な存在だとしたら、

ひぐらし卒の作中で明らかになった「フィーアがエウアに会いたがっていた」という要素、

フィーアさんは世界を作り変えることが目的...?とか思いました。

エヴァにおけるサードインパクトによる世界の創造は、映画だろうと漫画だろうと、全て初号機パイロットの碇シンジに委ねられています。

まさか、「なく頃に」シリーズでは、世界の創造はエウアさんの巫女に委ねられる...?

「特異脊髄標本 LD○○号」は、「LD = Lambda Delta」の略で、エウアのための巫女を量産している...!?

「ラムダシリーズ、完成していたの...」

というか、エウアさんが世界を創造しまくった挙句、フェザリーヌ・アウグストゥス・アウローラになるんだろうか...?

※ ここまで全て妄想

兎に角、エウアさんがいなかったら、こんなに「綺麗な世界」、生まれなかったんだからね??

 

・圭一と魅音は熱心にひぐらし業卒を見ていた

殴り合いの末、元いた世界に帰ってきた沙都子と梨花...

魅音が運転する車の中でも二人の空気は悪く、魅音や圭一が二人の関係性を説得するシーン、

どう考えても圭一と魅音ひぐらし業卒履修者だった...!

そんな感じの発言だった!

毎週欠かさず見て、ちゃんと二人の関係性を考察した、偉い視聴者だった!

 

・別離エンド

結局、沙都子と梨花は別々の道に進むことに。

現実的にはそうするしかないよね...うん。

最終的には、魔女沙都子が人間沙都子に体を返した。

まるで、沙都子からラムダデルタが生まれるかのように...

ただ、直感的に納得し難いのが次の2点。

なぜラムダの方がベルンよりも友達が多いのかうみねこのなく頃に参照)

ひぐらし業卒では一貫して、沙都子の方が自分以外の人間と戯れる梨花に嫉妬していたのに...

(最後、梨花は沙都子に「あなたのことしか見ない」という発言をしたので、そのせいでベルンに友達がいない...?でもどうして、ラムダには友達が多いの...)

沙都子の「殺人扇風機」発言はなんだったのか(綿騙し編)

「殺人扇風機」というワードは、「うみねこのなく頃に」において、朱志香というキャラクターが、自作の劇の台本の一番最後に「Fin」ではなく「Fan」と書いてしまい、魔女ラムダデルタに大爆笑されて生まれたワード。

ラムダデルタがこのワードを相当気に入り、沙都子に言わせた可能性はあります。

ただ、沙都子からラムダデルタが生まれたのだとすると、沙都子自身が「殺人扇風機」というワードを偶然思いついて発言し、ラムダデルタはその頃のことを思い出して朱志香の間違いがツボった、ということ...?

「殺人扇風機」という珍しそうなワード、そうそう思いつくものなのか...?

可能性がないわけではないですが、やや考えづらい気が...。

沙都子にラムダデルタが乗り移っていた、というように考えるのが自然だと思っています。

 

終わり方はとてもエヴァ感が強かったし、むしろ「新世紀エヴァンゲリオン」という作品が既に存在するからこそ、許される決着だったような気がしないでもない...

それでも、私は「ひぐらしのなく頃に」でとりわけ好きなキャラクターはいませんでしたが、業卒を通して沙都子が好きになりました。(ラムダデルタのことも、もっと好きになりました。)

ひぐらし初見時、印象に残った台詞の中に、

「私の覚悟は地球よりも重い」というのがあったことを思い出しました。(田無美代子)

色々と懐かしみつつ、楽しくストーリーを追うことができたかなと思います。

 

それでは、次、また何かのなく頃に!(キコニア早くないてくれ...)

ひぐらしのなく頃に卒 第1, 2話視聴後の感想

7/1(木)に放送された「ひぐらしのなく頃に 卒」を観た直感的な感想を忘れないうちに記します。考察はあまりありません。

 

最近、「When They Cry」について考えていると、人間性であったりとか、生き方であったりとかばかりを考えています。(主にうみねこのなく頃に

それを含めて、思ったことが多々。

 

北条鉄平と同じように、間宮リナが改心?している。

レナ父を騙すつもりなんてなく、風俗店なんかに来ないように言って欲しい、とのこと。

リナさん、レナを見たら余計にそう思うかもしれない。

レナが良い子だから、リナは父親に娘と向き合うべきだと、言ってくれたかもしれない。

レナはH173を投与されているので、思考ロックがかかっている。間宮リナは悪いやつ。

 

うみねこのなく頃に」のハロウィンパーティーが頭をよぎった。

縁寿が否定した、右代宮金蔵の姿。

古戸ヱリカ「瑣末な真実で失明することによって、どれだけの真実に自ら目を背けてきたのだろう。」

「こいつはこういうやつだから」という主観のロックが入ると、真実は濁る。

それをまた、竜騎士先生は表現してきた。他の作品でも何度も表現されている。

「間宮リナは悪いやつ」だと思い込んで排除したレナが真実に気づいた時、一番つらいのはレナだと思う。私はそれを知っている。

レナが「幸せになるために努力をしている」状態は、地獄であると私は思うから、その地獄をループさせているんだよ、沙都子...。

レナ視点、どうしてこうなっているのか分からないだろうから、理由も分からず解決策のない地獄をループするのと同じことで、まるで梨花みたいだな、と思う。

ひぐらしのなく頃に 業」のOP, EDジャケット絵で梨花レナが手を繋いでいたのは、そういうこと?

 

「When They Cry」は赦す作品だと思っている。

梨花も、縁寿も、赦した。紗音も赦せば、生きられたかもしれない。

ひぐらしのなく頃に 業」OPで、梨花が手を伸ばした先で待っていたのは、首を締めようとしてくる二つの手だった。

ひぐらしのなく頃に 卒」OPで、かき消されそうな沙都子の手を握ったのは、制服からしてたぶん梨花

梨花は沙都子を赦すんだろうな、と思った。

 

沙都子は他人を地獄のループに閉じ込めることの罪深さに気づいてない。

梨花が悪い」って言ってるから、梨花のせいにしている。

その罪深さを理解した、覚悟の上でループするなら、全く構わない。

「When They Cry」はエゴをぶつける作品だと思っているから。

鷹野も、梨花も、ベアトリーチェも、みんなエゴをぶつけてきたから。

 

沙都子には、罪深さに気づいてほしい。

それで沙都子がどうするのかを、私は観たいと思っている。

きっと、それが誰かの人生の参考になる。

「新世紀エヴァンゲリオン」から考える「キコニアのなく頃に」①

※ この記事は「キコニアのなく頃に」はもちろん、「新世紀エヴァンゲリオン 旧劇場版・新劇場版・漫画版」のネタバレを含みます。

 

「キコニアのなく頃に」はエヴァっぽく楽しんでほしい、という竜騎士先生の意志の元に描かれた作品です。

そのためか、世界観やキャラクターの性質がエヴァにとても近いです。

邪推かもしれませんが、「キコニア」と「エヴァ」の類似点を踏まえたうえで、キコニアについて考察してみようと思います。

今回はキャラクターについて。

 

・リリャ = 綾波レイ

リリャは「粘土の少女」で、Phase1ラストで人格が変わったかのような描写あり。

リリャが死んで、別のリリャ(見た目は全く同じ)になった可能性が高い。

綾波レイも魂のない器が存在し、綾波が死ぬと入れ替わる。

綾波は幼少期にリツコの母に殺され、使徒との戦闘の中でも死亡するが、何食わぬ顔で主人公たちの前に現れる。

・ジェイデン = 渚カヲル

主人公(男)が大好き!!

・御岳藤治郎 = 碇ゲンドウ

子どもを駒として見ている。

ゲンドウは妻のユイをシンジに取られたと感じ、シンジを毛嫌いする。

 

個人的に似ているなぁと思ったキャラクターです。ただ、全員、性格は全く違います。

エヴァは旧劇場版・漫画版のストーリーは完結していて、キコニアよりも話が進んでいるので、エヴァのキャラの立ち位置からキコニアを考察します。

 

綾波レイについて

エヴァンゲリオン無人で操作するために必要なダミープラグは、綾波レイを基礎としている。

漫画版のダミープラグの描写:大量のコードが「脳」のようであり、綾波が入る試験管は「脊髄」のように見える。

つまり、「キコニア」における脳工場と類似していると考えられる。

「キコニア」のダミープラグ、無人ガントレット?だとすると、フィーアのいる地下施設等にいる、青い少女のガントレットが合致する。

「キコニア」で試験管から人が造れるようになったのは、リリャのおかげかもしれない?

綾波も試験管で造れる。材料はおそらく、地下に張り付けになっている使徒リリス」(白いやつ)。

使徒:地球外からやってくる宇宙人的なもの。人類の代わりになろうとして侵略してくる、神。リリスは2番目使徒で、「セカンドインパクト」が起きた原因の一つ。エヴァは神(リリス)を元にして人が造ったエセ神。

セカンドインパクト:第一の使徒「アダム」と第二の使徒リリス」の接触により起きた大爆発みたいなもの。人類は滅亡するはずだったが、ある人物の働きによってなんとか人は生き延びた。ただし、海は真っ赤になり、生き物は生きられなくなった。

→ A3Wにおける"環境汚染"もこれと似ているので、「キコニア」における「○○インパクト」は"戦争"の位置づけになる。

「キコニア」の地下施設のタイムカプセルに眠っているのは、リリス的なもの(ヒトを試験管から造れるようにした人物)?

 

渚カヲルについて

渚:シ者、カヲル:一音ずつ一つ前に戻すと「オワリ」となる。最後の死者。第一の使徒アダムの子ども。

主人公の碇シンジくんが大好き!(新劇場版)

ただし、漫画版での出だしはそんな感じはない。人の心が分からない人物、くらいの感じ。

綾波レイはシンジとの交流の中で心を知っていく。そんな時に渚カヲルが登場する。

アスカ、シンジがエヴァに乗れない時に使徒が出現、レイとカヲルが迎撃する。

その使徒は侵食型(ヒトの心を知ろうとして、心に入り込んでくるタイプの使徒)で、レイとカヲルの両方が侵食される。

その時に、カヲルの中にレイの心が流れ込んでくる。

それが、シンジに対する好意だったため、カヲルはシンジに恋をする...。

新劇場版 序・破・Qにおけるカヲルのおかしな言動

・会ってもいないシンジの名前を知っている

・「君だけは今度こそ幸せにしてみせる」発言

・ゲンドウ(シンジの父親)に対して「初めましてお父さん」発言

・Qでは最初からシンジに好意があるっぽい

・首に爆弾巻いて「また会えるよ」発言

恐らく、新劇場版の渚カヲルは旧劇場版の記憶を引き継いでいる可能性が高い。

そのため、シンジの名前を知っているし、幸せにしてみせるという発言をした。

※ 旧劇場版は、シンジと精神的におかしくなったアスカだけが世界に残され、シンジがアスカに「気持ち悪い」と言われて終わる。ハッピーエンドではない。

ゲンドウに対する「お父さん」発言は、旧劇場版においてゲンドウがアダム(カヲルの親みたいなやつ)の体の一部を体内に取り込んだことからか(予測)。

ループしているとすると、カヲルの言動全てに納得がいく。

ジェイデンとの類似点、「主人公に好意を抱いている」しかないが、シンジとカヲルの絡みはエヴァでも大々的に描かれているので、カヲシンはミヤジェイ...?

こじつけ・主観が多いが、「渚カヲル=ジェイデン」だとすると、

ジェイデンは記憶を保持したままループするキャラクターである可能性がある。

さらに、主人公のために主人を裏切る可能性もある。

※ カヲルはゼーレという老人会の指示に従って動いていたが、死に方は自分で決めたいと言って、ゼーレを裏切ってシンジに殺してもらった。

 

今のところ、「キコニア」と「エヴァ」で似てる感じが強く、考察できそうなのは主にこの2キャラです。

キコニアプレイ中、アスカやマリの存在は感じられなかったように思います。

マリ出てきちゃうと、主人公のお母さまとの百合が...(ケフン)

エヴァを意識して描かれただけあって、全体的にエヴァっぽいと感じました。

ただ、エヴァも捉え方が人それぞれあるので、竜騎士先生が「エヴァンゲリオン」という作品をどう捉えたか、がポイントになってきそうです。

あとはどれくらいエヴァに寄せるかという竜騎士先生の匙加減もありますので、この記事で書いたのとは逆方向に進むかもしれません。

 

竜騎士07「ジェイデンはただの逞しい腹筋を持ったジェイデンだよ?(ループッテナンゾヤー)」

 

...またエヴァを踏まえて考察してみようかなと思います。

キコニアのなく頃に 【テーマ考察】

「キコニアのなく頃に」

この作品のテーマについて考えました。

キコニアの世界についての考察ではありません。また、主観を多く含みます。

キコニアの他、「ひぐらしのなく頃に」「うみねこのなく頃に」、そして「新世紀ヱヴァンゲリヲン」のネタバレがあります。ご注意を。

キコニアのテーマは、Phase1時点ですが、「子どもと大人の違い。子どもはいかにして大人になるか。」ということではないかと考えています。

 

キコニアは、なく頃にシリーズの前作、前々作と違って、「子どもと大人の対比」が明白に描かれています。

「大浴場騎士団」と「プロメテウス騎士団」です。

では、以前のなく頃にシリーズでは、子どもと大人の対比はどのように描かれていたでしょうか。

 

例えば、ひぐらしのなく頃に

皆殺し編では、虐待を受ける沙都子を助け出したい圭一が、「自分たちが村八分にされないために北条家を村八分にしなければ」という村民の考え(実際は村八分にしたいという意思は存在しなかった)を打破しました。

一心に仲間を助けたいと思う子どもが、古臭い凝り固まった大人の価値観に賛同できず、起こした行動がいい結果に働くことになりました。

 

では、うみねこのなく頃に

うみねこでは、惨劇の原因の一つに、「大人の価値観を子どもが理解できなかった」ということがあると思います。

戦人が六軒島に帰って来なくなったのは、留弗夫が明日夢の死後、すぐに霧江と結婚したから。

もし戦人が、「大人は仕方ないなぁ」とか思って、流すことが出来たなら、家出もせず、惨劇は起こらなかったのではないでしょうか。Last noteを読んでもそう捉えることができると思います。

しかし、戦人は、留弗夫が霧江とすぐに結婚したことを裏切りとして捉え、受け入れられずに、家を出て行ってしまいました。

結果、戦人は六軒島に戻らなくなり、魔女・ベアトリーチェが誕生。惨劇が起きる。

これは、「ひぐらしのなく頃に」とは対照的で、子どもが大人の価値観に賛同できなかった(理解できなかった)から、惨劇が起きた。

ただ、私は、こればかりは仕方がないような気がします...。

 

最後に、「キコニアのなく頃に」

キコニアはまだ未完作品なので、これから書くことは憶測になります。

ひぐらしのなく頃に」では、子どもが大人の価値観に賛同できなかったことが良い方向にはたらきました。

うみねこのなく頃に」では、子どもが大人の価値観に賛同できなかったことが惨劇に繋がりました。

そして、どちらも、他に選択肢はなかったと思います。

圭一が大人を説得しないという選択肢。戦人が仕方ないと受け入れる選択肢。

子どもの純粋さが、それぞれの選択をさせたのではないかと思います。

 

では、「キコニアのなく頃に」は?

 

大人の考えは、プロメテウス騎士団の悲願。「地獄の回避」

そして、地獄を回避するためには、第四次世界大戦による犠牲者は仕方がない。

対して、都雄率いる大浴場騎士団は、自らを平和の番人として、「死ぬな、殺すな」の考えに則って、第四次世界大戦を防ごうとしています。

しかし、Phase1の時点で、都雄は地獄の存在を知りません。

だから、都雄が平和を願うのは、仕方ない、子どもとしての普通の行動だと思います。

 

ただ、私はこのまま「ひぐらし」や「うみねこ」と同じようになるとは、思っていません。

キコニアは新世紀ヱヴァンゲリヲンを意識して書かれたものと竜騎士先生がおっしゃってます。

キコニアとエヴァを重ねると、例えば、ジェイデンは渚カヲルのようであったり(主人公にべったり)、リリャは綾波レイのようであったり(粘土の人形)、子どもしかガントレットナイトになれないという設定があったり(エヴァも14歳しか乗れない)、類似点が多数存在します。

大人の価値観に賛同できない、というのは、エヴァの主人公・碇シンジにもありました。

しかし、最終的には、世界の在り方を自分で決めて、世界を作り直す方向に進みました。(コミックス版)

 

もし、キコニアがエヴァと同じようなルートを辿るとしたら、地獄(平和)か悲願(プロメテウス騎士団的言い方)かを、主人公の都雄が選ぶのではないかと思います。

他の「なく頃に」主人公とは違って、大人の考えに賛同するか、しないか、という選択肢が出てくる。

その都雄の選択が、「キコニアのなく頃に」という世界の運命を決めるような気がしてなりません。

子どもは、犠牲を仕方ないものとして受け入れられない面が大きいのではないかと思います。

その犠牲を、仕方ないと諦められるようになって、大人になる...。

そんなことが、「キコニアのなく頃に」では描かれるのではないかな、と思っています。

ただ、提示されたものとは全く違う選択肢を選ぶ可能性もありますし、それはそれで面白いので期待です。

 

こんなことを考えながら、キコニアのなく頃に Phase2を楽しみに待っています。

これは1つのテーマの例であり、このテーマだけではなく、他にもいろいろな共通テーマがあると思うので、考えてみると面白いですね。